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「いらっしゃい」
「・・・おう」
あれから、週に1度ほどこの部屋に通っている。
驚いたことにこの部屋は俺のマンションの向かい側のマンションだった。
道理で間取り似ているはずだと変な風に納得したのはもう2ヶ月のこと。
「なう」
足元でオレンジ色の塊が鳴いた。
「まだいたのかお前」
「居ついちゃったの。私がいる昼間だけだけど」
苦笑しながらやってきた彼女は、湯気のたったマグカップを静かに俺の前に置く。
軽く頭を下げて「どうも」と礼儀正しく言えば彼女は笑った。
オレンジ色の猫は依然俺の足元からずっと動かない。
部屋の電気の色のせいか、その瞳孔の細い瞳は金色にキラキラと輝いて見えた。
「管理人になんか言われねー?」
「この子頭いいから、それとわかんないように部屋から居なくなるのよね」
いいながらオレンジ色の猫を抱きかかえた彼女は「ね、レン」と猫に話しかける。
どうやら彼女は猫に「レン」と名前をつけてしまったようだ。
それじゃあもう、野良に戻すのは難しいだろう、と軽く息を吐いた。
まあもともと助けたのが俺ってだけで、結局それから育ててるのは目の前の彼女なので別に俺が変な心配をする義理ではないと自己完結してマグカップに口をつけた。
モカマタリの香ばしさが口の中に広がる。
瞬間にブルルッブルルッと無機質なバイブ音が俺の座ってるソファの下から響いた。
「あ、ごめん携帯とって」
「ん・・・ほらよ」
一瞬見えたディスプレイに写った緑色の文字。
そこには簡素に「店」と書かれていた。
携帯を受け取りながら彼女は、抱えていた猫を床にそっとおろす。
ピッという通話開始音の後で、彼女は第一声に「お仕事ですか?」と告げた。
この2ヶ月(といっても実質彼女にあっている期間は2週間ほどなのだが)でわかったことがひとつ。
彼女が、いわゆる風俗で働いているということ。
それがどういった理由でなのかはわからないし、俺の聞けた義理ではない。
ただ、彼女は好きでその仕事をやっているわけではないのいうのは明らかだった。
電話の声はいつも暗く冷たい。まるであのピアノの音みたいに。
「・・・はい、はい・・・そうですか、わかりました、いきます」
おもむろに携帯を切った彼女は、携帯を机の上においた。
その際にもれたため息に俺は気づいていないふりをして「仕事か」と聞く。
彼女は「ごめんね」と笑って答えてそのまま脱衣所に向かった。
脱衣所に向かう彼女の背中、その露出した右肩の紫の蝶が震えている気がして、俺は顔をしかめる。
「なぅ」
「・・・なんだよ」
いつの間にかまた足元にきていたオレンジ色の塊が「それでいいのか」といっている気がして、俺はまた顔をしかめた。
だって、彼女には彼女の理由があって、俺はそれに口を出す義理はない。
俺と彼女の距離は縮まったようで縮まっていない。
そもそも縮ませるつもりなんかない。―――・・・そうだろ?
「・・・なーぅ」
キラキラと輝く、瞳孔の細い瞳が俺をにらみつけた気がした。
朝起きると雨が降っていた。
雨は嫌いだ。わけもなくからだがダルくなるし、ボムの着火具合もよくない。
そんなことをぼやいたら10代目はものすごく苦く笑った後で「毎日雨ならいいのにね」と、つぶやいた。
どういう意味ッスか10代目。
学校の帰りに、そういえば今日は彼女の家に寄る日だったと思い出してコンビニで少し立ち読みしてから彼女の部屋に向かった。もう何度目の訪問になるのかわからない彼女の部屋は、あれ以来ピアノの音を聞かない。
だというのに、あの切なくも暗く悲しいピアノの音色は時々まるでフラッシュバックの様に脳裏に蘇って俺を蝕んだ。
まるでたちの悪い薬みたいなそれは、俺をどういうわけだか焦燥感に駆り立ててこの足を彼女の部屋に向かわせる。
ため息をついてからチャイムを押し、返事が来る前にドアノブを回した。
それはいつものことで(確か4回目の訪問あたりから、この訪問の仕方が続いている)彼女もも十分理解している。
―――・・・はずだった。
「・・・んだよ、これ」
目の前に飛び込んできたのは、荒らされた部屋と亜麻色の乱れた髪。
背中を向けて倒れている彼女の露出した肩には、紫の蝶が羽ばたくのをまるでやめてしまったように、じっと動かない。
「―――・・・っおい!!」
瞬間ダッと靴のまま上がりこんだ俺は、彼女の倒れた細っこい体をくるりと反転させた。
むせるような青臭い香りが鼻を突く。
俺は盛大に顔を顰めて彼女の頬を軽く叩いた。
「・・・っ!・・・!!!」
亜麻色の、彼女のまつげがピクリと揺れてまぶたが薄く開く。
赤くはれた目元のせいでずいぶんと浮腫んでいるそのまぶたは、もしかしたら彼女にしたら全開しているつもりなのかもしれなかった。
「ごく・・・でらく・・・」
ゴホッとむせた彼女の背中を軽くさすって「何があった」と聞いた。
・・・いや、わかっていた。
明らかに彼女の状態を見れば一目瞭然だった。
けれども説明を求めたのは、俺がその事実を受け入れがたかったからで、そして彼女の口から「なんでもない」と(おそらくいつもの彼女ならそういうだろうから)聞きたかったからかもしれない。
つまるところ俺は、ひどく動揺していて、ひどく錯乱していた。
そして彼女は、そんな俺の意思を完全に汲み取ったように、笑った。
いつものように、笑った。
「なんでも、ない」
彼女の腕が俺に伸びて、首に絡まる。
「なん、でも・・・ないから・・・」
俺の視界の右隅でゆれる亜麻色の髪。
むせ返るような青臭い匂いのなかで、その髪だけが、彼女の香りをまだ残していた。
それが、俺の思考を現実に引き戻す。
「・・・っ」
俺は、無我夢中で彼女の背中に腕を回して、彼女を抱きしめた。
強く強く抱きしめて、彼女の匂いのするその亜麻色の髪に縋る。
聞きたかった言葉を聴いたはずなのに、俺はそんな言葉を求めてはいなかった。
俺は、彼女の口から「助けて」と聞きたかったのだ。
俺は彼女を助けられるだけの理由を、彼女に求めていたから。
10代目以外のことに対しては理論的にしか動けない俺に、その求めは必要なものだったのに。
彼女は、俺に助けを求めない・・・―――否、求められなかった。
そうしたのは、ほかならぬ俺。
助けを求められなくしたのは、俺だ。
「・・・ったよ」
「・・・獄寺くん?」
これはエゴ。
そして自己満足で、しかも同情が混じってる。
「忘れさせてやる」
そう低くつぶやいた後、俺は彼女の赤く浮腫んだ目じりに、唇を落とした。
あの切ないピアノの音が、聞こえた気がした。
のりぴー feat.鏡音レン:右肩の蝶
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