「・・・?」

急に目を見開いたまま動かなくなった彼女を訝しく思い、クロロはベッドから立ち上がった。
それと同時かその後か、彼女はゆっくりと唇を開く。

「そう、そうだった」

表情にはおくびも出さなかったが、内心クロロはギョッとした。
どこか虚空を見ている彼女の瞳に水の幕が張ってる。

「・・・クロロ、私、忘れていたのよ」
「何だ、なにを・・・」
「きっと、私は、あなたの思っているような強くて興味深い対象なんかじゃないわ」
「・・・」
「過去にとらわれるのが嫌で逃げ回ってた、ただの弱虫よ」

彼はゆっくりと彼女に近づいた。
彼女は逃げる気が無いのか、その場から動こうとしない。

「・・・説明、してもらおうか」

彼女はうつむいていた顔を上げ、クロロを仰ぎ見る。
いつもどこか深い闇を銜え込んでいるその深い緑の瞳が、何かにゆらゆらと揺れていた。




















頭を撫でるその大きくて筋張った指が、好きだった。
彼特有のまるで下卑たように笑うその顔も。
彼との旅は楽しかった。
毎日毎日移り変わる景色。
朱塗りの牢屋の中での日々が嘘のように、毎日おなかはすいたし、毎日ぼろ雑巾のような着物を着ていたけれど。
修行はつらくて、何度も怒られて、それでもちゃんとできればほめてくれた。
そんな彼が―――・・・好きだった。

けれど、自分は彼の好きなコドモではなくなってしまう。
彼の話では20歳になれば、否応なくオトナになってしまうという。
一人で旅をするのは嫌だった。
けれど彼に嫌われるのはもっと嫌。
でも、だけど彼を忘れて一人で旅をするなんて・・・。

そうして、彼女の思考は、深遠のふちに行き着いてしまった。

ああ、そうだ。
彼に【束縛からの解放―フェンリル―】をしかけよう。
そうすれば彼を忘れてしまえる。





そして、彼は、死んだ。

















「・・・本当の意味で、子供だったのよ、私」

彼女は自称気味に笑った。
いつもは深い闇を孕んでいる緑の瞳が、今は悲しみと何か良くわからない感情が入り混じりになってゆれている。
クロロはそれをじっと見つめていた。

「・・・私は別にあなたが期待するような、強い人じゃない。小さなことに一々揺れて、自分が抱えきれなくなったら全部忘れて逃げてしまう、そんな弱虫よ。・・・そうでしょう?」

見つめ返す彼女の瞳は、もうすでに深い闇を取り戻していた。
ただ、いつもよりそれはずっと濁っていて、淀んでいる。
色々な感情が入り混じり、その深く不透明な緑色を作り出していた。
クロロはそっと、彼女の頬に触れそのまま唇を落とす。
触れるか触れないかの柔らかな感触が、彼女の唇に残った。

「俺はお前に、そんな女が欲しいといったか」
「・・・」
「俺は"お前が欲しい"といったんだ」

クロロの深く透き通った真っ黒の瞳が、彼女の淀んだ緑色を射抜く。

「お前が望むなら、そんな男の1人や2人一瞬で忘れさせてやる」

深く緑を帯びた闇色の髪を、男の筋張った指が梳いていく。

「もし忘れられないなら、忘れるまで傍にいてやる」

その指は、あのハンターを少しだけ思い出させた。

「だから、俺のものになれ」

彼女は瞳を閉じた。
瞼の裏では、まだあのハンターが自分に話しかけている。
ただもう、彼の顔は歪んでいてほとんど思い出すことが出来ない。

そうして、後ひとつだけ思い出したことがあった。





「・・・、よ」





そう、奇しくも。
向うの世界と同じ名前を、彼女はあのハンターにもらっていた。
それが偶然なのか必然なのか、彼女にはわからなかったし、どうでもいいことだった。
ただ、あるのはその言葉―――・・・という、彼女の名前だけ。

彼女は瞼を上げて、目の前の黒く透き通った瞳を見つめる。
その瞳は少しだけ驚いた色を乗せていて、彼女は笑った。
笑いながら、今度はその黒く透き通った彼の瞳を見つめて言う。



「私の名前、っていうのよ」



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