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―――・・・・・・
嗚咽交じりに誰かが呼んだ気がしたのだが、ひどく体が重くて瞼を開けることすらかなわない。
―――・・・、目をあけて・・・
聞いたことのある声だった。
だた、こんな嗚咽交じりの声ではなくて、もっと明るくて優しい声しか聞いたことは無かったのだけれど。
―――・・・嫌よ、どうして、お願いだから・・・
やめて、と彼女は言葉をつむごうとするのだが、口すら満足に動かせることはかなわなかった。
見えないはずの声の主が、大粒の涙を流している気がして、彼女は何もできないでいる自分に怒りを覚えるのと同時に、どうやったら動かせるのかと思案に暮れる。
だが、一向に解決策はでなまま、とうとう声の主は声を上げて泣き出してしまった。
―――・・・なんでっ!!どうしてっ!!!起きて!もう、朝なんだか、ら・・・
やめて、泣かないで、ごめんなさい、いま動くから、だから・・・
「おかあ、さん・・・」
目を開ければ一昨日から泊まっているザハン市の安っぽいホテルの天井が見え、横を向くと遮光性カーテンの隙間から冬の太陽の白い光が零れ落ちていた。
ああ・・・と思って上半身を起こし頬に手をあてれば、生ぬるい水滴の感触。
帰れなかったのだ、という失跡に胸の辺りが苦しくなる。
先ほどの夢のようなものは、今現在―というのはもちろん推測でしかないのだが―向うにある自分の体だろう。
やはり死亡とは行かないまでも、昏睡状態であるようだった。
彼女は頬を濡らしている自分の涙を軽く拭いながら、ベッドを降りる。
顔を洗ってから着替えてカーテンを開ければ、やわらかい冬の日差しが部屋の中にあふれた。
今日は1月7日―ハンター試験初日である。
そういえば、と彼女はお昼代わりのステーキ定食をぱくついて思いついたように顔を上げた。
―――・・・私、ナビゲーターなしで定食頼んだけど、もし偶然一般人が頼んだらどうなんのかしら。
やわらかい肉をゴクンッと飲み込んで、ついでにつけてもらった烏龍茶で口の中を洗う。
でも良く考えてみたら、壁掛けのメニューの中にステーキ定食なんてなかったし、これもどっちかっていえば焼肉定食だし・・・つまり架空のメニューなのかな。
などとどうでもいいことを考えていれば、チンッと軽い音を鳴らしてドアが開く。
彼女はやれやれ、という具合で椅子から立ち上がり焼肉の煙で真っ白になったエレベーターから降りた。
すぐ脇にいる小さな人に番号札をもらって、辺りを見回せば男しかいない―――訳ではないのだろうけど、男しか目につかない。
薄暗い会場は汗と熱気と湿気とカビのせいで、ひどい匂いがする。
彼女は嫌そうに顔をしかめてエレベーターのすぐ傍に腰を下ろした。
座った事で若干薄れた匂いに「はー」と息を吐いて、番号を見る。
【389番】―――・・・まあ、ちょうどいい具合で来たというところだろうか。
「よう」
こんな気安く声を掛けるなんて誰だ、と思って顔を上げた彼女はその見覚えのある顔に眉毛をピクッと動かした。もちろん、こっちでの知り合いというわけではなくてあっちの・・・ハンター世界でないほうの自分が知っている顔、だが。
「お譲ちゃん新顔だね」
人のよさそうな顔をして、旨に16番の札をつけた新人つぶしの彼はご丁寧に「俺はトンパ」と名乗る。
暗にこちらの名前を要求していることが見え見えなので、彼女は「そう」とだけ答えた。
そんな彼女に彼は「気が立ってるのはわかるが」とすこし困った風に笑って、少しあたりをうかがうそぶりを見せる。
「ここは猛者の集まりなんだ。お譲ちゃんみたいな可愛い人なんてあっという間に食われちまう」
「・・・」
「それに俺はハンター試験を10歳から35回も受けてるベテランだ。そういう知り合いがいたほうが心強いだろ?」
な?と同意を求めるようにさわやかに笑う、自称ベテランを彼女は呆れたようにまじまじと見つめて(ちなみに彼にはその顔がどういうフィルターを掛けてるのか定かではないが"35回も受けてるなんてすごい!"という羨望のまなざしで見えていたそうだ)深いため息と共に「"ブラッドウルフ"」とつぶやいた。
「え?」
「"ブラッドウルフ"っていったのよ、私の名前」
その名前は、彼も知っていた。
今巷で噂の請負屋で、アマチュアハンター。
いつも傍らに紅い狼を連れていることから、その名で通るようになったという。
だがしかし、新人つぶしの彼は一瞬面食らったような顔をしたものの、急に面白そうに声を立てて笑い出した。
曰く、そんな風に見えない、と。"ブラッドウルフ"だというのなら紅い狼がいないではないか、と。
「第一、噂じゃそいつ性別は女だけど見た目は筋肉隆々の厳つい猛者だって話だぜ」
あははと笑う彼を見ながら彼女は内心どこからそんな根も葉もない噂が・・・とあきれ返った。
噂には尾ひれ背びれがつくのはこの世の常みたいなものだけれども、あまりにひどすぎる。
すこし頭痛を覚えた彼女は「そう、なんだ」と弱弱しくつぶやいて立ち上がりその場から離れようと荷物を肩にかけた。
「あ、おい!」
「なに、まだ何か用」
「名前はもういいけど、ほら、お近づきのしるし」
どこから出したのか、100%オレンジジュースと書かれた缶を差し出した彼に「いらないわ」と失笑して彼女はその場を離れる。
先ほどの会話を聞いていたのか、やたらとこちらに向かってくる視線が多いのだがあそこであのまま彼と話しているよりはましだろうと思い地下の会場を奥へ奥へと進んだ。
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